一般社団法人LIFE IS ROSEと西武池袋本店のコラボ企画『『日本の伝統文化篠笛の魅力と海外の反応』』オンライントークイベントより、フルーティスト/篠笛吹き・藤原雪さんのインタビューをお送りします。MCは稲葉哲治さんが務めました。
―稲葉:元々の出身は山形県ですよね。
藤原:そうです。温泉が有名な山形県上山(かみのやま)市で私は育ちました。
―現在フルーティストとして活動されていますけど、いきなり音楽家になったわけじゃないんですよね?
姉も従兄弟もフルートが好きで、篠笛も吹いていたので、その影響で音楽は小さい頃からずっとやってきたんです。高校3年生の頃、本当は音楽大学に進みたかったんですけれども、親が『音楽で飯が食えない』『もっと地道な仕事に就きなさい』って。それで栄養士の資格を取るための大学に進んだんです。
ただ、どうしても長年続けてきた音楽の仕事がしたくて…みんなに秘密で学科長に直談判したんです。その大学には音楽療法を学べる学科もあったんので、学科長に「私、どうしても音楽やりたいから、栄養士の資格も取るので、音楽療法士の勉強させてください!」って頼み込んで、長文のお手紙書いたんですね。私がいかに音楽を愛していて、音楽にはこういう作用があって、だから私、音楽やらせてください!って言ったんですけど、結局、学科長には『音楽と栄養学は結びつきません。勉学に集中しなさい』って言われて…
まあ諦めませんよね(笑) 音楽やりたいので。それで音楽サークルの先生に事の顛末をお話して「それでも勉強したいんです!」って言ったら、『分かったわ』って言ってくれて。授業に忍ばせてくれて、実習させていただいていたんです。
―音楽療法士ってあんまり馴染みがない方が多いかなと思うんですけど、音楽を通じてメンタルであっり社会との関わり方を取り戻してもらうとかっていうような試みですよね。
日本ではまだ馴染みが浅いかなと思うんですけれども、アメリカとかドイツではもう国家資格になってるんです。音楽の力でうつ病とか、対人恐怖症とか、そういうものは治せるって医学的な証明が出てるんですよね。なので、日本もいつかそういう時代が来ると信じて 勉強しました。
―音楽というある種の新しい栄養を伝えることをやりたかったんですね。でもとりあえず、最初は栄養士の仕事をされていたと。
でも就いてからもやっぱり諦めきれず、利用者さんに「ご飯どうですか」って聞きに行きながら、今度、音楽イベントとご飯食べるイベントとかできないかなって思いながら密かに企画書を書いて院長先生に提出したりとかしてたんですけど、その時もまだ、やっぱり私の夢は叶わず…『音楽聞いても、栄養と直接結びつかないでしょ』って言われてしまって、また私の挫折が続くんですよね。もうどうしようもないので、これは東京に行くしかないと思って、本当に「おら、東京さ行くだ!」と思って(笑)東京に来たんです。
―それで思い切って栄養士を辞めて山形から上京されたんですね。
母と父に内緒で、東京の家を決めに行ったんです。「東京にライブ行ってくるね」と嘘をついて。本当に東京に行くって言ったら、みんなに止められると思ったので…幡ヶ谷の不動産屋さん行ったんですけど、保証人が要るじゃないですか。それで、お母さんに電話して「今、物件東京に決めてきたので保証人になってください」ってお願いしたんです。
―まず既成事実を作っちゃって上京してきたと。うん、なかなかドラマチック。
結構ね、劇場派なんです(笑)東京出てきたはいいけど、何のつてもないし、どうやって音楽の仕事したらいいんだって…来てから考えたんですよ。
―なかなかですね(笑)
そんな時に稲葉さんがやってらっしゃるイベントを知って、フィリピンのカリンガ族の人たちと関わりながら、そこのものを使って楽器を作っていらっしゃる。「かっこいー!」って思って。結構人見知りが強い東北人だったんですけど、東京に来て最初の勇気を振り絞って「見学」っていうか「ストーカー」みたいなことをしていて(笑)うまく言葉にならないから、多分音楽が好きだと思うんですけど、かっこよかったんです。それで私も音楽で社会貢献したいって思ったんですよね。
―それで、そこからネパールへ。
市ヶ谷のあのJICAあるじゃないですか。暇だったんでフラフラって毎日遊び行ってたんです。毎日夕方ぐらいになると、じゃあ今日も 「地球ひろば」行こうかなーって思って。今日どんなイベントやってるかなって思ってたら、ネパールの人たちと出会ったんですけどね。当時根暗な私だったんですけど、ネパール人の方があまりに幼稚で、陽気に踊ってらっしゃったんですよ。山形の山の中から出てきた私にとっては 素敵だったんです。
―ネパールも山の中だから波長が合うかもしれないですね。あちらは世界一のとんでもない山ですが(笑)
それでその主催の方に「私、音楽で外国でなんかやりたいんですけど」って言ったら『あ、じゃあネパールで音楽の先生募集してるんだけど、やってくれない?』って声をかけてもらって。私、思い立ったが吉日の女なんで(笑) その1ヶ月後にはもう向こう住んでたかと思います。
―そんな勢いで!
もう急いで勉強して。英語も喋れないし…まあ、日本語もね、ろくに喋れないので(笑)あの頃はガムシャラで、音楽で、世界で何かがしたい。それだけ。
―なるほどね。それでネパールで子供たちと辛うじて学校の建物があるぐらいなところで、楽器もなければ楽譜もないところで音楽を教えられていたということなんですね。どんなことを教えられてたんですか?
いい質問ですね。最初は「楽譜を教えてください」って言われていたんです。音楽教育がない国なので、楽譜を教えてもらえれば、ユキが帰国してからもネパールに音楽は続いていくだろうってことだったので、快く引き受けたんですけど、実際行ってみると『日本の花はなんだ?』『日本の踊りはなんだ?』とか、子供たちのまっすぐな質問がすごくてですね。結構コミュニケーションの時間がすごい大事だったなって思いますね。最初の頃はずっと子供たちに、着物の着せ方を教えたり、あとはずっとソーラン節踊ってました(笑)
―やっぱ踊りってね、子供とのコミュニケーションはすごくいいですよね。
ネパールっていうのは、お花がすごい有名な国なんですよね。だから、何かあると、生徒や学校の先生の仲間が、お花を摘んできてくれて、胸ポケットに刺してくれたり。花輪を作って、被せてくれたり、本当に最高でしたね。
―そういう風に子供たちとコミュニケーションを取りながら、音楽教育というより総合的な教育をやってらっしゃって、また、日本に帰ってきて、そこから本格的にフルーティストとしての活動を東京で本格化してったって感じですね。
そうですね。ネパールの子どもたちが最終的にドレミファソラシドまで楽譜で弾けるようにまでなって、そこの校歌を作ってきたんです。ミュージッククラブをつくって。それならもう、私が帰国しても、音楽部の部長とか先生たちとやり取りすれば、音楽は消えないなって思って、安心して帰国したんですけど、1年間すごいもがく時期があったんですよ。「この世界で何か私ができることはないか?」って。それこそ、教育関係のあの方にお話聞きに行ったりだとか。いろんな音大生のところに行って「なんか一緒にできない?」って言ったりして、ずっともがいてたんですよね。その中で、マザーテレサのある言葉に出会うんですよ。
(後編につづく)
ゲストプロフィール:
藤原雪(フルーティスト/篠笛吹き)
山形県上山(かみのやま)市出身。山形の指定無形文化財、上山藩鼓笛楽保存会に11才で入隊。音楽療法士の課程を習得し、2014年ネパールの学校で音楽教師の職に就く。引きこもり支援活動にも関わる。2019年秋、フルート2名、ピアノ1人による女性3人音楽集団 「三人楽器」結成。2回のワンマンライブは即日ソールドアウト。急遽追加公演を行った。今年4 月に公演がキャンセルになってしまった事をきっかけに、たった一人の観客を招待するスペシャルなコンサートを企画して、全国紙や地方紙、Yahoo NEWSに取り上げられ話題になり、フジテレビ「とくダネ!」にも取り上げられた。